メソアメリカとはメキシコの北部を除いた全域から、グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカの一部を含む地域を指します。
この広大なメソアメリカには多くの文明が発祥し、繁栄を極め、そして滅亡を繰り返しました。またその多くが未だ解明されておらず、戦争、飢饉、疫病など所説あり、文明によって
はこつ然と消え去り、ジャングルに埋もれてしまいました。
メソアメリカ文化圏には代表的な文明としてマヤ、テオティワカン、スペインに滅ぼされた
アステカ、それ以外にもオルメカやモンテ・アルバンなど、多くの文明がそれぞれ異なる
場所で、異なる時代に独自の文化を築き上げていたのです。

【母なる文明・オルメカの誕生】
コロンブスが新大陸のやってくるずっと以前、紀元前2万年ごろすでにメソアメリカには人類が居住していた形跡は発見されており、紀元前2000年ごろ、メソアメリカで発祥した全ての文明に影響を及ぼし、後に「母なる文明」と呼ばれるオルメカ文明がメキシコ湾岸地方に突如産声を上げます。オルメカは円錐のピラミッドを中心に都市を築き、雨の神様を
主神とした宗教、巨石人頭像や半人半ジャガー(半分神で半分が人)など、独自の文明を育み、翡翠など石の加工技術、また数字の「ゼロ」の概念を持っていたと言われています。
オルメカ文明が生んだ「雨の神」は、その後興るマヤやテオティワカンにも表れ、最も古い神の一つと考えられています。
残念ながら現在、オルメカの遺跡を見学することができませんが、発見された当時の状態を
そのまま移設した野外博物館「ラ・ベンタ」にて、多くの出土品が展示されています。

【写真】半人半ジャガー、巨石人頭像

 

【神秘的な文明・マヤ】
その後、紀元前900年頃メキシコ南部、ユカタン半島を中心にマヤ文明が急速に成長を始めます。高温多湿で深いジャングルの覆われた土地に誕生したマヤ文明は、グアテマラ、 ベリーズ、エルサルバドルなどの中米に広がり、いくつもの都が築かれます。
同じマヤ文明といっても時代や土地、気候によって独自の文化が育まれ、多くの遺跡、多くの言語が存在することとなります。しかしいずれも驚くほど高い天文学の知識を持ち、複雑怪奇な「マヤ文字」と「暦」を操り、大きな建造物は美しい漆喰とモザイク壁画に覆われていたそうです。多神教であったマヤ文明は「雨の神様」と「チャック」と呼び、火の神や風の神など自然を「神」と崇め、文明が滅んだ後もマヤの末裔により多くの神話が語り継がれています。マヤ文明は時代や形を変えながら9世紀ごろまで繁栄をしますが、ある日突然
都を放棄し、人々は深い森の中に消えてしまいます。人口増加に伴う食糧不足、戦争など様々な説が考えられていますが、こつ然と消えてしまうその瞬間まで、人々の営みの痕跡が残る遺跡もあり、「なぜこの都は滅んだのか?」謎は深まります。
そして自ら都市を放棄し、滅亡を選んだマヤ文明に神秘的なロマンを感じてしまうのです。

【写真】ジャングルに覆われるマヤの遺跡カラクムル、今も多くの遺跡が未発見のまま埋もれているチカンナ遺跡

 

【深緑に潜む白亜の遺跡・パレンケ】
メキシコの数あるマヤ遺跡の中で最も美しいと称されるのが、チアパス州北部に位置するパレンケ遺跡です。深いジャングルに忽然と現れる白亜の都「パレンケ」は、パカル王(615A.C.-683A.C.)を中心に成長した最大規模の遺跡です。パカル王死後も息子のパカル2世が引き継ぎ、さらに都市を拡大、繁栄を極めました。
パレンケ遺跡では複雑かつ美しいマヤ文字が神殿に刻まれた「碑文の神殿」や、地下から
石棺とともにヒスイの仮面など多数の装飾品をつけた王の遺体が発見されることで、当時の考古学による「メキシコのピラミッドは神殿の台座に過ぎない」という定説が覆され、マヤ遺跡に対する旋風を巻き起こしました。また多くのマヤ文字や肖像の彫刻も発見され たため、改めてパレンケ遺跡の重要性が認識されたのです。

パレンケ遺跡の存在を世界に知らしめたパカル王の墓室とヒスイの仮面が発見されたのは「碑文の神殿」で、圧倒的な存在感。残念ながら現在は墓室へ行くことは禁止されていますが、発見された装飾品はメキシコシティの国立人類学博物館で見ることができます。
深いジャングルに閉ざされた都がなぜパカル王とその息子の時代に最盛期を迎えることが
できたのか?パカル王の遺体が安置されていた石棺の蓋には、彫刻が施されていますが、
そこの描かれたパカル王が、何かの乗り物を操縦しているように見え、高度な文明をもたらした後、宇宙へ帰ったと唱える学者もいるとか。
天文台まで設け、星の動きを観測していたパレンケの人々。パカル王は空の彼方へ消えたのか?不思議でロマンチックな遺跡です。

【中央高原の覇者・テオティワカン】
メキシコシティの北東、紀元前2世紀ごろから6世紀まで、中央高原を支配したテオティワカン遺跡は古代都市に相応しい大規模な建造物の数々、最盛期には10万人の人口がいたと考えられています(所説あり)。その強大な影響力は中央高原に留まらず、遠く離れた
南部のマヤ文明にも及ぼしたと言われ、メソアメリカに君臨します。
その規模もさることながら、未だ多くの謎に包まれているテオ ティワカン遺跡は、
「神々の住む場所」という意味があり、太陽と月という象徴的なピラミッドの他にも
多くの見所を持ち訪れる者を魅了し続けています。
テオティワカン遺跡、往時には大繁栄を遂げたにもかかわらず、人々はどこから来て、
そしてどこへ去って行ったのか詳しくは分かっていません。またこれだけ類稀な建築技術
を誇り、多くの人口を抱えたと思われる文明に、文字がまったく遺っていないのです。
そもそもテオティワカンという名も、後にやってきたアステカ人が彼らの言葉「ナワトゥル
語」で付けており、当時この巨大な古代都市がどのように呼ばれていたのかもわかって
いません。文字の代わりに神殿やその内部にモザイクや壁画が遺されており、当時の思想や
宗教観などを伺い知ることができます。

【写真】ケッツアルコアトルの神殿、ジャガーの壁画

 

代表的な建造物と言えば太陽のピラミッド。当時メソアメリカ最大の宗教都市であった
テオティワカンで最大の建造物であり、世界でも3番目に大きいピラミッドです。
高さ64m、底辺の1辺の長さが225mもの巨大なピラミッド頂上にはかつて神殿が建っていたと考えられており、年に2回太陽が天頂点に達した時、ちょうどピラミッドの真上に位置し、夕刻には真正面に沈んでいくように設計されています。テオティワカン人の太陽崇拝の宗教観を示すようで興味深く、現在もそのピラミッドパワーを求めて多くの人が訪れます。多くの謎に包まれたテオティワカン遺跡は、今も発掘調査が進められているのです。

【悲劇の文明・アステカ】
テオティワカン文明が滅亡した後、中央高原には複数の国家が誕生し、最終的には絶大な戦力を誇ったアステカ文明が1420年ごろから1521年まで君臨します。スペイン人が新大陸に到着した時、すでに成熟した都市国家が存在し、「テノチティトラン」と呼ばれた都を見たスペイン人たちに「ヨーロッパのどの都よりも美しい」と言わしめたほど。
アステカ人の言語である「ナワトゥル語」は今もメキシコの地名に多く使われており、国名である「MEXICO(メヒコ)」も、アステカ人の元々の名称だった「MEXICA(メシカ)」から由来していると言われています。
高い収穫量をもたらす「チナンパ」農法は、20万人以上と言われる人口の食糧需要を満たし、活発に行われる物流は豊か文化を育み、アステカ文明はまさに最盛期を迎えていました。
しかし古からの伝説とスペイン人によってアステカは滅ぼされ、メソアメリカ最後の文明となってしまいます。
アステカ文明に関するお話は、また次の機会にご案内したいと思います。

メソアメリカという広大な地域には、いくつもの古代文明が誕生し、独自の文化を昇華。
そして滅びを迎えています。いずれも優れた文明でありながら、発掘が進む今も多くの謎を残しておりますが、マヤやテオティワカンなどの遺跡は当時の繁栄を我々に感じされてくれます。古代メキシコを体現したい、ご自身の目で確かめたかいという方は、日本語ガイド
が詳しく案内するツアーがありますので、こちらのページをご覧くださいませ。

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